今日は誕生日。めでたくもなし、だったはずだが...


本日は、私の満63歳の誕生日でした。

朝、妻から、「誕生日おめでとう」と声をかけていただいたけれど。いつもの年ほどには、輝かしい気分にはなれず、「ありがとう...」と小さな感謝にとどまりました。

そもそも、この世に生を受けてから、365の倍数にあたる日だけを重んじることに、どんな意味があるんだろうと身も蓋もないことを考えつつ、何の気なしに頭をよぎったのは、

めでたさも中くらいなりおらが春

小林一茶だよなあ。幼少のころから、何度も耳目にしたことはあるけれど。

正月を迎えたけれど、そう幸せといえる人生ではないな、ということだよな。
なにか素朴な人柄にほっこりとさせられる句だけど、単なる独り言に過ぎないのではないか?とこれまでと同じように思いました。

ところが、「ちゅうぐらい」とは、一茶の故郷である長野の方言とする説があり、「あいまい」「いい加減」といった意味で使われることがあるそうな。

つまり、現代語訳すると、

「新年を迎えめでたいというけれど、いい加減なものだ。それもまた自分にとってはふさわしいものではないか」

(以上の引用:俳句の教科書|俳句の作り方・有名俳句の解説サイト

あらら、私のいまの気持ちそのままだわ(^^;

めでたさも中くらいなりおらが年祝い

「(訳)誕生日を迎えてめでたいというけれど、どんなもんかね。このあまのじゃくな気持ちも、いまの私にとってはふさわしいのかもなあ」

大怪我で脳機能障害を起こして、およそ一年になろうとしています。

医師ほか病院スタッフの手厚い治療のおかげと、私自身のリハビリテーションの努力も奏効したのでしょう。多少の機能劣化はあるものの、表面的には快癒したように見える。

しかし、精神的障害、言い換えると「こころのやまい」は、むしろひどくなっているかもしれない。

無性に不安になる。落ち着かない。自分を責める。ひねくれる...
日に何度も小さい波が来て、週に一度は大波が来て。
体も疲れやすい。
涙もろい。(これはいいか。涙は心の汗だ、という詩もあるしね。)

家人にはいまだに心配と迷惑のかけっぱなしで。
理不尽な発言や行動をみせることもある。

私は何を悩んでいるんだろうか?これは脳機能障害の影響なのか? 

入院期間は、バカンスというより冬眠だったように思えます。
時間がたっぷりあったせいか、「中くらいなり」の人生をよくよく振り返る機会になってしまった。

家族には、今回大きな心配と迷惑をかけてしまった。しかし、それまでだって、そうだったよなあ...
そして、いま仕事や生活が以前ほどうまくいっていないことも、拍車をかけているのでしょう。

「こころのやまい」を手当てするために、心のありようを和らげてくれるようなボランティア団体を探して、相談したり助けてもらったりしています。

また、そこから紹介いただいた書籍「夜と霧」を読みました。

第二次大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた心理学者が、<人間が存在することの意味への意志を重視し、心理療法に活かす独自の理論>(出版社サイトからの引用)を苛烈な体験をなぞりながら、人間はどう生きるべきかを説き、戦後、世界中でベストセラーとなった書籍。

間違いなくすばらしい。
他の愛読者と同じように、何度も読み返して学びを得ようとしているけれど、まだ一度切りしか読んでいない。

いまの段階で、私の生き方としてメモしていることは、
「どんな逆境にあっても、誇りをもって生きること」
「遠くにほのかに見える、過去のすばらしい出来事を思い出すこと」。

そして最もたいせつなことは、いつか来るであろうすばらしい日を夢見て、
「今日一日を律儀に過ごすこと」。 

これを実践するために、毎朝、「今日もまた生きよう」と心に誓って起き上がります。

そういう毎日のなかで、思うようになりました。

私はこれまで、長いこと背伸びをして生きてきた。だけど、これからは等身大で生きてみよう。

精神障がい者と自覚して、弱者として生きるのもわるくないのではないか。
(気に触る方がいらっしゃったら、すいません。あくまで私自身のことです。)

仕事はあと10年、経営者として、社会貢献できる組織づくりに力を入れて生きていこう。

等身大とは、どれくらいのサイズだ?これはわからない。
時間はかかりそうだけど、この歳になって、自分をもう一度見直していこうと思います。

「おめでとう」 の語源を調べてみました。

めでたいは「愛ず(めず、賞賛する)」+「甚し(いたし、程度がははなはだしい)」の縮約形で、「賞賛する以外にないほどすばらしい」が原義だそうです。
とはいえ、「とても、いとおしい」という意味にも捉えられますね。

今夜、妻に「ありがとう」とまた言おう。明るい声で。

明日の朝も明後日の朝も言おう。「毎日、ごはんをありがとう」と。
毎日のつぐないを込めて。

【追記 1/25の夜】

夕食のときに、妻はささやかなパーティを開いてくれました。
ハッピーバースディを歌っていただき、僕は泣きました。
彼女も同じように泣いていました。
愛情あふれるはげましの手紙もいただきました。

また、親戚から、誕生日は親に感謝する日だと教えていただきました。
冒頭の写真は、20年ほど前の娘からのプレゼントです。

感謝ばかり!の誕生日になってしまいました。

【追記 1/30】

昨日、体育会系の先輩と食事をともにしましたが、
彼は信濃の人で、「ちゅうぐらい」の意味するところを教えてくれました。

「真ん中ぐらい」ではなく、「大したことない」「適当な」ことをさすそうで、子どものときに祖父から、「ちゅうっくらいなことすんな!」と言われると、震え上がったそうです。すなわち「ちゅうぐらい」は、「激」であると。

そこで、私へも、「あなたも、ちゅうっくらいなことすんな!
ブログにあんな弱気なこと書くんじゃない、商売人なんだから!」と檄をいただきました。

そうだよな、ある人格者に「あなたは自分に厳しすぎ」と諭されて、少しゆとりは持たないとなと考えていましたが、それと強い(強かった)自分と、うまくバランス取らないといけないですね。

心がシャキッとしました。身が引き締まりました。

改めて、一生懸命に生きる。先輩、ありがとうございます。