フェイスブックで「男澤さん全員集合」のページを作って、全国のおとこざわさんと「友だち」になった2012年、横浜に住む男沢さんが男澤家・男沢家のルーツを調べており、概要について教えていただきました。
(おとこざわは男沢、男澤の漢字があてられますが、以下、多数の男沢で統一します。)
岩手県一関市が発祥の地だよ。仙台市博物館で聞けば、文献がある。
まあ、そういう説もあるんだろうくらいに考えて、当時、興味本位に手ぶらで仙台市博物館に出向きました。
あのー、私は男沢という姓でして、登米市出身なんですが、そのルーツを調べているのですが...
はい、ちょっとお待ちください、と語るやいなや、書棚のあちこちから本を数冊引き出し、該当箇所に付箋を貼って、これくらいかと思います、とこの間わずか数分。
この人はもしかして男沢一族か、そうでなければ、こんなに記憶しているはずがない。学芸員恐るべしと思いつつ、驚きとお礼を語り、必要な部分をコピーして読みました。
主に伊達家と葛西氏の家臣としての男沢家の出自か地名の説明。
それによると、かつて戦国時代、一関市花泉町老松の男沢城に葛西家の家臣がいたが、豊臣秀吉の奥州仕置にあって、葛西氏とともに滅んだ。その残党が、宮城県に逃げ込んで男沢を名乗ったということのようだ。
実際に、男沢家は宮城県北部に数十軒ほどが散らばっている。
国土地理院の2万5000分の1の地図で探したら、「男沢」が小さく見つかりました。
思えば、小学生のとき、なんの用事だったのか当時の同じ地図を見ていたら、偶然、この地名を見つけていたのですが、その後、あれはどこだったんだろうと時折思いだしていたのでした。
実家のある宮城県登米市と岩手県一関市は平成の合併後に隣接しており、実家から男沢城の推定地までは約20キロほど。両親を伴って行ってみました。
現地は道路も高低差もなだらかにカーブして丘陵のふもと。
この辺のはずだがと見当をつけて、草刈りをしていたおじさんを捕まえて聞いてみたら、あの山が男沢城だと指さして教えてくれました。
ひとりだったら、長靴をはいて城跡まで近づいてみたかったのですが、次回のたのしみにして。
父親は感激の体で、男沢姓を名乗って70年以上にもなるのにこんな近くにルーツがはっきり存在するとは知らなかったと。私自身もタイムワープでもしたかのような、地に足がつかないような気分でありました。
横浜の男沢さんからルーツを教えていただくとは、インターネットがなければわからなかったこと、つながらなかった縁であります。
先日、ふと妄想したのですが、「男沢さん霊園」をそこに作れないかな。子孫が先細りする世の中であっても、将来にわたって全国の男沢さんたちの聖地となるよなあと独り言ちていました。
なお、熊本県にも男沢姓が少なくないようですが、別のルーツなんでしょうね。
(追記)横浜に住む男沢さんの読み方は「おざわ」さんです。
(追記2)
めずらしい名字も含め、都道府県別の推計人数や由来を調べている有名なサイトをご紹介します。名字由来net。これによると、男澤姓の全国順位は 1万3432位、人数はおよそ450人(男沢姓含まず)。女澤姓も調べられます。
右の丘陵が男沢城跡。東西200m南北300mの規模で、本丸らしき部分には空堀の遺構がみられるとのこと。左の祠は、奥州三十三観音のひとつで陸中最古の松澤山六角堂。地図には金流川なる名称が見られるが、この地域の山々では金が取れても不思議はない。上部の「花と泉の公園」は観光名所。 |