鉛活字の重みと、人の熱量 ― 「佐高新聞」縮刷版を手にして

 


先日、実家で父ととりとめのない話をしていたときのこと。

ふと父が席を立ち、本棚の奥から大きな本を抱えてきました。

分厚く、ずしりと重いその本の表紙には、「佐高新聞 縮刷版(平成14年発行)」。母校・佐沼高校の生徒新聞をまとめた合本でした。

父は若い頃、地元の印刷会社で働いていました。

現代に学校新聞が発行されているとしたら、パソコンで編集し、データ入稿して印刷という流れが当たり前でしょうが、当時はすべてが手作業だったわけです。

新聞部の生徒が書いた原稿を割り付けにまとめ、それを印刷会社に持ち込む。父はその印刷、特に組版を担当していたのでした。

活字を拾い、版を組む

父の話は、私が想像するよりずっと細かく、そして力仕事でもありました。

県内の高校は新聞コンクールで競い合っていた。紙面はタブロイド版が主流だったが、時には新聞大のサイズに挑むこともあった。

印刷工程は次のとおり。

まず、鉛活字を一文字ずつ棚から拾い出す――「文選」という作業。

罫線も鉛製で、原寸大の台板の上に組み上がった版は、とにかく重い。

活字は当初、真四角だったが、時代が進むにつれ新聞用の扁平活字に変わった。一段あたりの文字数が一、二文字増えるだけでも、情報量は大きく変わる。

写真や大きな見出しは、仙台の専門業者に依頼し、金属板に加工してもらったそうな。

レイアウトの難所は囲み記事だった。

原稿用紙できっちり書かれた原稿なら問題ないが、便箋に書かれた文章は文字数が読めず、枠に収めるための調整が大変だったそうだ。

組み終われば、刷り上げ、そして版を分解して活字を棚に戻す――これもまた根気の要る作業だった。

半世紀分の記録をめくる

縮刷版は、昭和26年2月発行の第5号から、平成14年の第195号までが収録されています。

平成14年は母校創立百周年の年で、この記念事業として刊行された書籍です。

自分の在学中の号を探してみると、当時の議論の熱気や不安が、紙面越しに伝わってきます。

この年ならではのトピックとして、「共通一次試験第一期生」として新しい入試制度を考える特集がまず目に留まりました。

先生へのインタビュー、生徒会・応援団の選挙、校内球技大会の記録、演劇鑑賞会や文化イベントのレポート――そこには学校生活の息づかいが思われました。

書籍の巻頭には、わが恩師でもある、元顧問・島原先生の寄稿文が載っていました。

20年間の顧問経験を振り返り、昭和30年代は高校新聞が県内で盛んだったこと、「佐高新聞」が県新聞研究大会で総合3位に入賞したこと、そして50名近い部員が熱気あふれる倉庫改造の部室で新聞を作り上げた日々などが記されていました。

「紙」の力、ネットにはない

現在、母校のホームページを見ても、新聞部の名前は見当たらない。
おそらくもう生徒新聞の発行はなされていないのでしょう。

いまはネットが情報発信の主流で、写真や動画を瞬時に世界へ届けられる。
だが一方で、情報は消えるのも早い。
サーバーが閉じればページはなくなり、リンク切れとなって二度と見られなくなることもあたりまえ。
SNSのタイムラインに流れた記事は、数日後には埋もれてしまう。

その点、紙は強い。

縮刷版は半世紀以上の時を経ても、ページをめくれば当時の空気をそのまま吸い込むことができる。

紙面のレイアウト、活字の形、写真の粒子、余白のバランス――それらからはすべて、作り手の息遣いと判断の、つまり携わった人々の労力の積み重ねそのものです。

さらに、紙は「存在感」がある。

机の上に置かれたときの重さ、手にしたときの感触、ページをめくる音と匂い。これらはデジタルでは再現できない。
手作業で組まれた活字と、人の目と手で磨かれた記事が、そのまま物質として残っている。

これが人間の感性を刺激する。

五感と熱量の記録

父は年4回の発行に向け、徹夜に近い作業を何日も続けたと懐かしく語っていました。

当時の現場には、〆切前の緊張と、刷り上がった紙面を前にした達成感があったことでしょう。
その熱量が、今もこの本の中に閉じ込められているようだ。

パソコンやスマホの画面越しでは感じにくい、人間の体温のようなもの。鉛活字の冷たさと重さを、何千回も手にしてきた人たちの時間。
その記録が、こうして私の目の前に、モノとして残っている。

ページを閉じると、ずしりとした重み。表紙の板紙の固さが手に残る。

その感覚とともに、父の手元から響く鉛活字のかすかな音と、金属のひんやりした感触が、時の底からそっと浮かび上がるようでした。