先日、旧友がこの世を去ってもう数年経ったことを知りました。享年六十。
彼と音信不通になってから、私は何度か彼へ向けてハガキを出していたのですが、それを手にした彼の妹から、訃報が届いた。
彼――「三田村サトシ」と呼ぶことにする――との付き合いは、三十年にも及びました。
私的な伝聞や記憶に基づくため、正確さに欠ける部分がありましょう。が、不思議な男が生きていた記録を残しておきたいと思いました。
縁の始まりは「荒町の寄席」
出会いは三十年ほど前、仙台の下町、荒町。
当時、荒町の街づくりに心血を注いでいた名物男、後に仙台市政功労者にも選ばれた出雲幸五郎さんから、「荒町に寄席を作りたいという熱心な男がいるから、会ってやってくれ」と紹介されました。
彼の「仙台の下町に、人々が集って笑い合う演芸館を」という直情径行ともいえる情熱に触れ、私はブログに彼の活動のことを書きました。まだいまほどネットが世の中に浸透していない頃だったが、三田村は記事をとても気に入ってくれた。
それが、長く、奇妙で、温かな交流の始まりでした。
「正義の人」の挫折
慶応卒で東京在住という彼が、なぜこれほどまでに泥臭く、一銭の得にもなりそうのないことに力を注ぐのか、その想いを測りかねていました。仙台が生まれ故郷だとしても。
実は、彼が三十歳のサラリーマン時代に経験したある事件こそが、その後の人生を動かしたのでした。
山手線の車内。大声で電話する若者を注意した老人が、罵詈雑言を浴びせられていた。義憤に駆られた三田村は迷わず割って入ったが、逆に若者から暴力を振るわれ、重傷を負ってしまう。
だが、正義を貫いた彼を待っていたのは、無情な社会の反応でした。
長期休職を余儀なくされた彼を、会社は「役に立たない社員」と切り捨て、不当な配置転換や退職まで迫られた。
このような仕打ちにこころを病んで、三田村は組織に属して定職に就くことをやめました。
深く傷つき、絶望の中にいた彼を救い上げたのが、浅草できまぐれに入った寄席の落語だった。
芸の世界が持つ、人間の愚かさも弱さも全て包み込むような温かさに触れ、彼はそこから、芸人を支え、その活躍の場を作ること、紹介することに、たったひとりで取り組みはじめたらしい。
携帯を持たず手紙にて
三田村は今どきめずらしく、携帯電話を頑なに持たなかった。自宅に固定電話はあるのに。
外出先で連絡が必要になれば、平然と友人のスマホを借りる。
通じなかったときは、この携帯に返信をなどと、少々迷惑な振る舞いだったが、どこか憎めないのが彼の徳でした。
ある固定収入があったが、生活は質素でした。仙台を訪れる前には、港湾の日雇いバイトで旅費を稼ぎ、格安のホテルを定宿に。
一方で、彼は「紹介魔」で、私が東京に行ったときには、どうにか都合をつけた同伴者を伴って、男澤くんに会いたいと言っていたから連れてきたと。向こうは目がテンになる。
その顔ぶれは、オペラ指揮者や老舗の後継者、医師、一流の商社マンで現天皇陛下の幼少期のご学友など、さすが慶応人脈と驚くほどでした。
農業を実習させたり幅広い人間教育で有名な慶應義塾志木高から慶應義塾大へと進んだ、豊かで強い人脈が、彼を支え続けているようでした。
彼は超アナログ人間でメールは使えない。年に何度もご機謙うかがいの手紙が届きました。
その書き出しは、同級生の男澤くん云々。奥さんは変わりないか、お子さんは大きくなったか。家庭にまで首を突っ込んでくる。
時に、あたり前田のクラッカーやアメ横で求めたすしはね海苔、娘にと選んでくれたカジュアルすぎるバッグなどが同封されていることもありましたね。
ありがた迷惑に苦笑しつつも、その不器用な心尽くしを無下にすることはできず、たまに返事を出してしまう。無遠慮だけど、温かく、人のこころに踏み込んでくる人だった。
練馬の夜、安中華の「ギャラ」
一度、誘われて練馬区民センターでの演芸イベントに出かけたことがありました。
正直、しぶしぶ出向いたのだったが、クラシック音楽家のパフォーマンスから奇妙なピン芸人まで幅広くかつアットホームで、とてもおもしろかった。
終了後、出演した芸人や三田村さんが招いた彼の友人たちと、近くの安い中華料理屋へ食事に行った。友人から耳打ちされた言葉が忘れられない。
「この飲食が、芸人さんたちへのギャラ代わりなんだよ」
三田村の主催だったのだと知りました。
金のない中で、どうにかして芸人の活躍の場を作ろうと奔走する彼。
その実情を知る友人たちは、どこか呆れながらも、「放っておけないヤツ」と付き合いを続けているのでした。
「あなたも見込まれちゃったんでしょ。仙台から大変だねえ」
そう笑い合った夜の、安酒の味を今でも思い出す。
最後まで貫いた「芸」への敬意
震災の翌年、彼から電話があった。
「幇間芸(たいこもち)の悠玄亭玉八師匠が、被災された仙台のみなさんを慰問したいとおっしゃっている。男澤くんがお座敷を用意してくれないか」。
最初意味がわからなかったが、演芸にお金を出してほしいということだな、とようやく通じた。
では、と知人を10数名招待して会費制で「お座敷」を持ちました。
仙台ではふれる機会のない江戸由来の芸は、理解できないものもあったが、ホンモノを観ることができた。
自ら費用を工面し、芸人の活躍の場を必死で作ろうとする三田村。
「しょうがねえなあ」と笑って話に乗ってくれるんだなあ、みんな。
師匠もそうだったんでしょ?
「浅草東洋館」に今日はいい出し物ばかりだ、と連れて行かれた際、彼が出演者全員に「仙台から来た友人の男澤さんからです」と勝手に缶コーヒーを配り歩いたことも忘れられない。
そこには彼なりの、芸人への最大のリスペクトと、人との繋がりへの執着が混ざり合っていました。
退館してから、頭をコンとたたくふりして笑いました。
また会える日がくるでしょう
私は老境にさしかかって、「会いたい人に会いに行く」ひとりキャンペーンを実践しています。まだ動き回れるいま動かないと、後悔することになりかねないと思っているから。
三田村の人を喰ったような笑顔に会うことが叶わない。その代わりにこの駄文を綴ってみました。
まっすぐすぎる正義のために傷つき、けれど芸の世界に救いを見出し、六十年の生涯を全力で駆け抜けました。もう少し健康に気を配っていてくれていればなあ。
彼はカタチあるものは残さなかったけれど、交流のあったたくさんの友人知人には、あの缶コーヒーのような、なま温かくて少し可笑しな、けれど尊い記憶を残してくれたんだろうね。
あちらの世界でも、きっとだれかれ構わずに寄席を勧めていることでしょう。
そっちでは新年があるのかな?よいお歳をお迎えください、三田村。
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