手が、目になった日。

 


妻が外出した日曜日。昨日まで忙しかったので、今日は自宅でゆっくり「仕事」の日です(^^;。

その前に家事をかたづけちゃおう。
お風呂の残り水を使ってトイレ掃除から、と思ったとき、ふと気づいた。
眼鏡そうじもしなくちゃ。

今かけているこれも外して、私の相棒5本まとめてバケツに浸しておこう。
そのまま、眼鏡なしで続けてみることにしました。

トイレ掃除は、トイレに流せるクリーナーペーパーではなく、雑巾でやってみました。天気がいいので、終わったら天日干しできるし。

裸眼で0.1。見えないわけではないが、視える世界がずいぶん違います。

見えにくいから、手が頼りになる。
便器の内側まで雑巾をあてた。
ゆっくりていねいな仕事ぶりに、充実感。

ブラシのバケツもお風呂の水で洗って、内側を手でこすってみた。
ところが、「ていねいだ」との自己満足もつかの間。ざらざらしている。

目で「きれいになった」と判断していたこれまでの掃除は、実は雑だったのではないかしら。

次に作業部屋フロアのぞうきんがけ。
ダンボールをばらした後だったので、細かい紙くずが散らばっているはずだった。
それが見えにくい。わからないながら、二度拭いた。

最後に、浸け置きしといた眼鏡の掃除。
これが皮肉だった。
見えやすい汚れはわかる。でも、テカリや薄い汚れは眼鏡なしでは判断できない。
ふだんより簡便に終わらせた。

「ていねいな暮らしをしたい」と、しばらく前から思っていました。

けれども、仕事にかまけ、休養が下手な性分もあって、さっぱり実現できないでいたところ、今日図らずも、その片鱗を味わうことができたのかもしれません。

視覚の制約が加わったことで、スピードが落ち、手が慎重になり、感触で判断するようになりました。
本物の視覚障がい者には、笑われそうなレベルの話でありますが。

3年前、階段から落ちて頭を打ちました。意識を失い、しばらくの間、自分の体が自分のものでなくなってしまいました。(→わけもなく、日になんども、涙があふれる
あのとき、体が動かなかったことで、はじめてゆっくり考える時間ができました。

「制約」は、じゃまものではなく、道を整えるものかもしれません。
これから聴覚障害、肢体不自由などの疑似体験も、少しずつ試みてみたいと思いました。

あ、いま思い出しました。
20年くらい前になるかなあ。視覚障がい者であり、会社の経営者であり、プログラマーでもある荒川明宏さんとふたりで、徳島に出張したことがありました。
五感と盲導犬を高次にはたらかせながら行動し、しかも健常者よりも人生を楽しんでいることに目を見張りました。
(こんな書き方の端々に、とても違和感をもつけれど、あえてこのままにしておきます。)

笑われることを覚悟の上で、というより、笑ってもらいながら、学んでいきたい。